昭和43年12月2日 朝の御理解

御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不詳のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」



どんな宗教、宗派の、宗祖、教祖でも、おー、天体のことを、このように分かりやすく、このように、あの、分かりやすく説いておられる、うー、方は、かってなかろうと思いますですね。キリスト様だって、お釈迦様だって、天体のことを、このように、しかも人間、氏子、無学のものでも、どんなに知恵のあるものでも、学問のあるものにでも、このように、えー、説き明かしておって下さる。もう、金光教祖をおいて他になかろうと、私は思うのです。それは、大変な、あー、天文学といったような学問やらは、大変な学問だろうと思うんですけども、その、まあ、人間の知恵力で、えー、なす、一つの学問のようなものでも、ものによってです。例えば、日柄を言う、ね。方位を言い、家相を言い、ね。例えば、普請作事、家を建てるにも、種まき一つさしてもらうでも、天地の、おー、動きというか、天地の、おー、動きから、あー、割り出した、いわば、計算によって、その、今日の日、今日という日は良い日であるとか、悪いとか、といったようなことは、決っておる、決るらしいんですね。だから、そのようなことは、あー、やはり、いー、言うておられる方が沢山ありますけども、そういうようなものは見るにおよばんと。と、いかにも無視したように言うておられます。けどもこれは、ただの無視じゃないと思うですねえ。いわば、天地の親神様を把握しておられると言うか、天地の親神様と同根であるから、これが言えたんだと思うのです。金光大神は。ね。此の方、金光大神あって、神が世に出たと、または、天地と同根と、天地の親神様と同根であるとか、また、此の方、金光大神あって神が世に出たとかというように、天地の親神様がそういうご信任というかね、ご信用が、を、受けておられるからこそ、これが言えたんです。やはり、その、あるのはあるんです。ね。それは、学問の上にでもはっきり、そのあるのですから、ね。例えば、これは家相、私共のこれは人相、手相、ね。日柄の良し悪し。それは、そういうその、一つの学問になるほどに、ま、系統立てると、学問になるというほどしの事ですから、あるのだけれどもです、それを、あるものを無いように、しかも、無視したように、この、言えるということは、どういう事かと言うとですね。如何に天地のご信任を受けておられるという事を、教祖ご自信がですね、あの、疑っておられたかと。例えてまあ、申しますので、どういうこと申しましょうかね、んー、えー、ま、例えば、えー、私の、おー、信用を得ておると、まあ、皆さんが思われ。例えば、ほんなら、秋永先生なら秋永先生が、もう、親先生の信用を自分は受けておると、思うから、私の心を見ておるように、私の心を知っておるように、ね。例えば、私に代わってです、私に代わって、そら右がよいですよ、左がよいですよと。こら、こうした方が良いですよと、いうことが言えるんです。ね。自分が信用受けていないと思うならです。私が右にしたらええとか、左にしたりとか、分かりもせんで、そんなふうに決めるわけにいかん。けども、親先生は自分を信用してあるから、自分の言うこつならば、おや先生が文句言いなさるはずがないと信じるところに、いわば、私が命令、命令というと可笑しいですけども、命令なら、命令をするようなことでも、秋永先生が命令をして、その、もう同じだという事になるのです。ね。まあいうなら、私は右が良いとおもっても、秋永先生が左とこう言うてもです、その左という事に、一つも私自身が障らない。んん、そんのほうが良かろうという事になってくるのです。金光大神が如何に天地のご信用を受けておられるかという事を、自分でも知っておられる。だから、天地の中に、そういう様々な、それを、場合には迷信といったんです。ね。いわゆる、迷信だーと。それは実を言うたら、迷信じゃない。もう正しい、それが本当だろうと私は思うのです。けれどもその、教祖様の言われたことに対して、天地がですね、動きなさる。教祖様のお言葉通りに、天地が変貌してきなさる。明日お天気が良いぞと、教祖様が仰ると、あくる日は、例えば、降ることになっておっても、お天気がようなる。ね。例えば、どうでしょう、私に代わって、秋永先生が、ここで様々な、なら皆に、右にせろ、左にせろと、まあ命令するとするか。それを、秋永先生が、そげなこつ言うちから、私はこげんすうと思いよったよと。お、言うたら、秋永先生の顔はつぶれてしまう。ね。そう、秋永先生が言う通りにして下さいと。ね。例えばあの、ここの、おー、一番良い例が、ここの、御造営でしたですよね。もう、まだ椛目時代も、まだ、一、二年ぐらいだった。あの、御大祭たんべんに、お広前が広うなったり、拡張されたりしておった時分です。その時に、あの、御造営の話があったんです。それはまあだ、勿論、実力も何もなかったけれども、ご普請の話があったんです。で、その事を神様にね、お願いさせて頂いたら、んー、秋永先生ですね、秋永友良が、その、中心になって、働こうという時が、神の時期だという意味が、の事を、これは、十何年前に私が頂いておったことです。これは誰にも、もう、言いもしません、私だけが頂いておる。はあー、秋永先生が立ち上がるときが、合楽、うー、椛目の金光様が本当に御造営になるときだなと、私は思うておった。それから、五年たっても、十年たってもなかった。いわゆる、秋永先生が、本気で立ち上がろうとしなかった。だから、秋永先生、いついつ、ご普請ばお持ちなさいてん何てんて、こっちは言いもせん、思いもせん。ね。ところが、ああして御造営の日が、起こった時に、秋永先生が委員長として御用を頂く事になった時にです。はー、こらー、成就するぞと私は思うたです。だからもう、実を言うたらですね、私のように小さい心のものは、が、私が、私に、人間的に言うたら、こげな御造営は出来るはずはないです、絶対に。そらーもう、とても、どげん考えたっちゃ、現在の椛目には贅沢だ。もう、そげん美しゅうせんでん、そげん綺麗にせんでんと、言うことばっかりだったです。けども、秋永先生が、右が良い、左が良いと、ほとんど、こう、まあ言うなら、ま、言うならその、まあ、ワンマン的に支配をした下さった。まあ、色んな、そのために、いー、ちょっとやりすぎと言ったような声もあったんですけども、幾らやりすぎても良いと私は思ったんです。ね。秋永先生を通して、えー、神様が動いておられるのだからと、ね。だから、この御造営が出来上がったんです。くそ秋永先生、ちとやり過ぎりゃせんの。そらちった、あー、まちっと安かつで、ようはないのと。そらちった、あー、値段が高すぎる、まちっと安かつばしなさいという風に、私がいちいち言うておったらですね。これなんかは、今日、私が申します良い例だと、こう思うのです。ね。私の信任を得ておると、秋永先生が思うから、それだけのことを言うてのけられた、やってのけられたわけです。これがましてこの、天地のことですよ。ね。しかももう、それこそね、私、今朝、三時三十五分だったでしょうかね。正確に言うたら、何分だったでしょうね。三十なんぷ、とにかく三時半ちょっと過ぎた時に、ここへ毎朝出てまいりますんです。今日もそこに出てまい、ここの障子を開けて、今から柏手して拝もうというのと、あの、私が、しっそ北西の方角に向かって、何時も柏手を打つんですよね。天を拝むんですよ、そして、あの地を、ここの、おー、石庭のあるところを、私、地を拝む場として、そこを拝むんです。天地を拝するわけです。天をこう、天にその一角を見つめてから、柏手して拝もうといった瞬間にですね。さーっとこの、星がね、もう、大変な尾を引いて流れたです。一瞬、私は、もう、柏手打つのを止めて、それをまあ、眺めさせて頂いたんですけども、はー、神様は私に何を今日、教えられるのであろうかと、そこから思うたです。ね。
 昔の真田雪村という人は、あの、星の方角とかね、その、天体を見て、その、あそこに、いー、敵が隠れておるとかですね。今日はどうしたが良い、明日はどうしたが良いといったようなことを、その、おー、判断したといわれております。やはり、学問の上に立った、その、ものでしょうね。天文を見るわけです。いわゆる、天文学者ですよね。だから、しかもね、あの星は、何千年前、何万年前にですね、あの、光ったか分からない。地球上にですね、私共の目にこう、映ったときにはもう、その、何千年前に光ったのか分からないのです。それを計算すれば、あの星は、何千年前に光ったのが、私の目に今、見えておるという事になるのだそうです。大変なことですね。光といや皆さんもう一番、もう、一番早いものですよね。一瞬間に、地球のぐるりを七回半も廻るというのが光の速さなんです。そういう早い速度を持ってです、ね。あの、星のあるところから、この地球上に照らされるのが、何千年も、何万年もかかってるというんですから、この、宇宙というものの、いわゆる、広大無辺さというのはもう、それからと言うて、あるのはあるです。だからもう、数があんまり多いと、天文学的な数字とか何とかと申しますでしょう。学問の上に、ちゃんとその、あー、そういう計算が出来るのです。ね。何千年も、何万年も前にです、私に神様が教えようとしておられることがです、ね。今日、三時三十五分に、それを私に見せてくださった。そして、今日一日の私の生き方を教えて下さってある。ねえ。大変なことでしょうが。しかもそれが、もう、一分一厘の間違いもなく、そういう計算の上に立って、そういう事になっておるわけなのです。ね。それをですね、教祖様はです、ね。日柄も方位も見るにはおよばんと、こう言うておられる。ね。普請作事は使い勝手のよいのがよい家相じゃと、こう言うておられる。いわゆる、その、この宇宙の中に、天地の親神様の、ま、いわば、天網恢々疎にして漏らさずというような言葉がありますが、ね。もう、私共の大は、只今申しますように、星の光が何千年も、何万年も前に光ったのが、今、私の目に入ってくる。しかも、普通ではなくて、そういう流星ですね、流れ星。その流れ星が私の運命に、どう響くか。私に、天地は何を今日、教えておられるかと。それを、今日、私、はっと、分からせて頂いた瞬間です。ね。そして、この教典を開かせて頂いたら、この六十五節を頂くのですよ。だから、教祖という、教祖様というお方、金光大神というお方はね。どのくらい天地の信任が厚かったかという事が分かる。ね。天地の中にただ、その、天網恢々疎にして漏らさず、大は只今申しますように、何千年も、何億年も前の、おー、事柄の、もう、そげん昔のこっじゃけん、どげんでんよかというこっじゃない。ちゃーっと計算の上に立っておる、その、事なんですが、そんなら、小は、私共の、小さい小さい心の動きまでも見ておられるということ。私共の心の動き一つでです、例えば、おかげは和賀心と仰るのは、それなんです。自分の心が今まで悲しいと思うておった、腹立たしいと思うておった。それが、次の瞬間に、はー、そうじゃなかった、これはお礼を申し上げねばならんことであったとか、ね。有難いなあーと、こう思うその心がです。ね。私共が、おかげをキャッチするんですから。それが、どういう事かと言うと、私共は、小さい小さい心の動きまでも、神様が、もう、いい加減になさっておられない、それを見逃しなさるようなことはないという事です。
これは、あるという人にはあり、ないという人にはないといったような、いい加減なものじゃないと思いますですね。例えばここに、普請作事、日柄方位といったようなものが。そげな事はなかがの。迷信がのと。一笑に付するわけには行かないのです。もう、理路整然として、一つの学問になっておるぐらいですから。やっぱりあるんです。あるけれども、教祖が仰っておられることであるから、例えば、悪い日であっても、よい日としてです、神様がおかげを下さるということです。秋永先生が、どんなにやり過ぎても、私が、秋永先生を信用してるから、やっぱり神様のご都合じゃろと、私が信用しておるようなものです。いうなれば。ね。だから、私は、もう、宗教史上ですね、このような素晴らしいことを、しかも、このような分かりやすい言葉でね、教えておられるお方は、ね。後にも先にも、無いと私は思うですね。そこで、私共が分からなならん事は、教祖様の教えて下さっておることを、ね。どのくらい実意を持って、それを忠実に取り組んでいかなければならんかということが分かります、おかげを受けるためには。
 私はあの、こうやって六十五節を頂かせて頂いてから、ほんなら、今日、私が、あの、今の、おー、流星を見たと、何時な十分に、その流星を見たと。そして、その次の瞬間には、今日一日の、私の動きというものが、を、教えておられる、天地が。ね。それは、あー、どういうようなことかと、私は思わせて頂いたら、御理解六十五節を頂いたと。なら、この御理解六十五節を読ませて頂けば、これだけの事ですから、別に考えることも要らん、こんなにみやすう、誰にでも分かりやすくです、まあ、教えておられる。教祖様が教えておられることであるから、よい日も悪い日もないんだと、私共が思うところにです、ね。例えば、よい日悪い日があっても、それを、悪い日であっても、それをよい日にして下さる。差し障りのないようにお繰り合わせを下さる。だから、その、教祖様の教えてくださることを、素直にそうして受けるということが、どういうような事だろうかと私は思わせて頂いたらですね、この、がんですね、丸い、九の字を書いて点。田主丸の丸ですね。田主丸の丸。を、一字、大きく頂くんですよ。本当言うたら、円満の円ですね、この丸いという字。これなら私は直ぐ合点が行くんですけれども、どうして神様はこの、九の字に点の丸を下さったのじゃろかと思うて、まだ、今も分からんなりおるんですけれども、皆さん、考えてみて下さい。ね。結局、おかげは和賀心にありと、教祖様が仰っておられるから、如何に私共が、丸い心にならせて頂くことを、一生懸命願わなければならんか。この丸い心はね、天地の中に、どういう素晴らしい規則というか、それがあってもですね、んー、その、教祖様は言うて下さる、その丸い心一つで、ね。有難いことに、目出度いことになってくるおかげを受けられるんです。しかもその、丸い心というのが、和賀、和らぎ喜ぶ心と、こう仰るが、その和らぎ喜ぶ心を、今日、私が頂きますとです。九の字に点を打った丸なんです。円満の円じゃないです。丸い心とは、ね。教祖様の仰る、丸い心とは、円満の円です。大体これのほうが本当のようにあるです。ね。円です。ところが神様は、あの、田主丸の丸という字を、この丸にならなければ、教祖様の仰るところの和賀心にはならないんだと。ね。和らぎ喜ぶ心というのは、ね。九の字に点を打ったのでなからなければ、本当の和賀心にならないんだと、こう、お話をしていきよると、私は分かってきたような気がする。皆さんも分かられたでしょう。教祖様の仰る、いわゆる和賀心というのは、九の字に点を打ったものだと。その丸。その円でなからなければならないと。ね。その丸い心を持ってするならばです。丸い心を持ってするならばです。ね。おかげが受けられると。たとえ、悪い日であっても、よい日になると。例えば、家相が悪かっても、もう、使い勝手のよいのが、よい家相になると、丸い心を持ってするならば。ね。それは、九の字に点を打った丸であるということ。ね。私は、教祖様が仰っておられる、和賀心などという、和らぎ喜ぶ心などというのは、とてもとても、大変な難しいことだと思うんですよ、実を言うたら。ね。おかげは和賀心にあり、と仰るから、もう、簡単にいや、それだけやけども、実際、ね。平和の和の心と、喜びの心が一つになったような心というようなものは、そう、てんばらやすう頂けるものじゃないけれども、ね。そういう丸い心が頂けるものじゃないけれども、九の字に点を打った丸ならば、お互いが努力をすれば、誰でも出来るということ。私は、ここんところを頂いてですね、今、お話をしながら、ま、何と素晴らしいことであろうかとこう思う、教祖様の御教えというのは。ね。誰が只今申しますように、ね。天地宇宙のことの一切の支配をなさる神様なんですよ。しかも、人間の一人ひとりの上にです。ね。何千年も、何万年も前から、計算をして、計算を立てておられて、おられるほどの、緻密な頭を持っておられる天地の親神様なんですよ。かというと小は、自分の心の動き一つをです。物怖じしなさらないところの、また、緻密な神様でもあるわけなんですよ。そういう事を、一切無視してです、もう、いたるところで、そこにおかげを現すことの出来れる働き。ね。教祖様が、この六十五節に、もう、何気なく、そのものずばりにですね、言うておられるけども、この内容というものは、ね。自分が天地の信用を受けておるから、日柄も無いんぞ、方位も無いんぞ、使い勝手のよいのが良いのぞと言うことが、公言されておられるわけなんですよ。しかも、おかげは和賀心にあると仰る、和らぎ喜ぶ心というのが、お互い求めて、目指して信心をさせて頂いておるけれども、ね。果たしてその、和らぎ喜ぶ心というのが、そう簡単に頂けるものではないと。もう、それを求めれば、求めるほど、それを一切感じますです。ね。和の心だけなら、心が円満、平和なときもある。けど、喜びが付いてない。何か、本当に心の中から湧いてくるような喜びを頂くような時であっても、喜びではあるけれども、和が付いてない。そうならなければ、おかげが受けられんというなら、もう、大変な難しいこと。それは、目指すところがそれであっても。そこで、私共、人間凡夫のためには、こういう生き方、こう言うあり方に、ならせて頂くと、和賀心と同じおかげの受けものというのが、を、許して下さる。それは、同じ円満であっても、丸い心であっても、その丸は、田主丸の丸の字である。九の字に点の丸であるということ。九の字に点ということは、ね。お話しながら分からせて頂くことはです、どのように自分の心が乱れておってもということ、九は。九ということは苦しいということ。ね。例えば、心に、自分の心の中に、こんなに浅ましい、恐ろしいような心が、ここに、例えばあると気が付いたらです。ね。その心は苦の心なのです。自分を、ね。いわば、もう、さいなんでおる心。苦しい苦の心。けれどもです、それに一つ、点をね、それに点を押しただけでもです、神様すみません。ね。このような、このような汚い私でございますと、こう、もう、転で打っただけでも良いから、反省する心、詫びる、お詫びをする心が、それに伴えば、それを丸としての、ね。丸の心として受けて下さるんだということだと、私は今、思わせてもらうのです。ね。そうすると、お互い信心を、段々分からせてもらい、自分の汚いところを、はっきり見極めさせて貰えれるだけの信心が出来たら、誰でも、この、和賀心にはなれるということが分かるですね。ね。ここんところを、私は、えー、その点の字をね。人間じゃき、このくらいのことは当たり前といったような、そういう心が慢心だと思うですね。そういう心が、もう実意を欠いた心だとこう思います。ね。ですから、私共が、点で押すだけのことでありましても、それが、詫びになり、ね。または、修行になり、改まりになり、ね。そして、自分の心の、いわば、見苦しさとか汚さといったようなものを、その、詫びる心にならせて貰うときに、そこに、天地が受けて下さる、その、それを和賀心として受けて下さる。丸い心として受けて下さる。だから、おかげが受けられるわけなんです。だから、いわば、良い日もなからなければ、悪い日もないのである。ね。ここにこうやって、普請をしようと思います。どちらの方角にお粗末御無礼があるやら分かりません。ね。けれども、私のほうでは、このようなふうに立てたほうが、使い勝手がよろしゅうございます。どこにお粗末御無礼があるやら分かりませんけれども、どうぞ、お許しくださいと、詫びて建てるところに、もう、よい家相も悪い家相もないほどのおかげが頂けるというふうにも頂ける訳です。ね。もう、倦怠で、我がよかごつ、俺が地所に俺が家建てるとじゃけんで、といったような考え方が、如何に横着であるか、または、それでは、ね。機感に叶わない心であるかという事が分かります。
もう、それこそ、大変な、大きな事から小さいことを申し上げておるのですから、もう、分かりにくかっただろうと思いますけれどもね。結局、やはり、私共の心に、えー、神様が求め給うのは、和賀心。その和賀心というのは、なかなか頂けんけれども、ね。私共の心の中に欠けておるもの、足りないところはです。いわば、修行なり、お詫びなり、ね。ちょっと点で押しただけの、いわば改まりなりによって、そこんところを補うて行くような信心させて貰うことが、和賀心に通じることだと、ね。ということと、如何に、教祖の神様というお方がです、後にも先にも、なるほど、此の方のような、実意丁寧な信心をするものを、もう、後にも先にも見たことがなかったと、天地の親神様がね。いわゆる、感嘆の声を上げておられるようにです。教祖の神様て、そういう素晴らしいお方であった。その、素晴らしいお方の、お取次ぎを頂かせてもらうところに、ね。私共は、親のおかげで、言うなら、まあ、倦怠のようにしてです、信心のないもののように、迷信も言わんで済む。この世の中を狭い、不自由な世界にせず、もう、広々とした、私共の、おー、住まわせて頂いておる世界を広々と、ね。いわゆる、自由自在に泳ぎまわれるおかげの頂けておるという事を、私は感謝しなければいけないとこう思う。ね。なるほど、天地金乃神と同根と、もう、天地の、そういう偉大な神様と同じ方が、言うておられるのであるから、間違いがないという事になるのです。ね。言うなら、天地の親神様が悪いのだけれども、よかよか、金光教の信者に限っては、もう、悪かばってん、もう、そこはこらえてやろうと言うておられるようなもんですよ。ね。ですから、私共には、日柄も方位もないようなおかげが受けられるわけでございます。そして、今日、改めて分からせて頂いたことは、ね。丸に点の字の丸い心。九に点の字だね。手にくと、漢字の九という字に、数字の九ですね、数字の九に点を一つ押せば、それは、丸という字になる。それは、円満の円ではなくても、円満の円として、それを受けて下さる。和賀心として受けて下さる。そこで、夕べから私が申しております、この十二月という月を、いよいよ、お詫びの月として、今年一年中のお粗末御無礼は、どこにあるやら分からない、また、気付いておるお粗末、気付かずにおかしておるお粗末、御無礼、ね。その事のお詫びの印にです。私共が、日々があればです、ね。これが、本当に、九の字に点を打たして頂くことの丸の心に通じるのじゃなかろうかというふうに思うのです。どうぞ。

中村良一
2005年5月8日